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※注:以下の記述については、まあ、デタラメと思っていただいた方が正確です。
てゆーか、このサイト何系?                        

年代 事柄
キリスト歴 ペリーヌ歴   ヨーロッパ     中近東      インド      世界
BC70000

BC35000
BC30000

BC20000

BC15000
BP70000

BP35000
BP30000

BP20000

BP17000
                              ウルム氷期の始まり

クロマニヨン人の出現
最後のネアンデルタール人?
                              ウルム氷期の極寒期
                              
イヌの家畜化
                              
農業のはじまり?
ラスコーの壁画
BC10000

BC7000
BP12000

BP9000
                              ヤンガー・ドライアス事件(ウルム氷期の終わり
                              新人、南アメリカ南端に到達
           
エリコの都市遺跡        
BC6000

BC5500
BP8000

BP7500
新石器文化(ヨーロッパ)               長江流域に稲作

                              後氷期高温期(ヒプシサーマル)の始まり

BC4500


BC4000


BC3500
BC3100
BC3000

BC2668
BC2500


BP6500


BP6000


BP5400
BP5000
BP4900

BP4532
BP4400


           
ロバの家畜化(エジプト)    三内丸山遺跡

ベル・ビーカー人の侵入                気候最適期(
クライマティック・オプティマム)
巨石文化(イベリア人)                 オーストロネシア人中国南部から移動開始
           狩猟犬(クフ)の壁画(エジプト)
           
シュメール文明          ジャガイモの栽培(南米)
                     
西方からドラビダ系の民族侵入
           統一王朝の確立(
上エジプト王メネスによる下エジプト征服
エーゲ文明(青銅器文化)
           亜麻の栽培(エジプト)
           古王国成立(
ピラミッド建設盛ん)
亜麻の栽培(ヨーロッパ)     
インダス文明  後氷期高温期(ヒプシサーマル)の終わり
                              
アーリヤ人、移動開始
BC2370
BC2047


BC2000


BC1800
BC1792
BC1700

BC1600

BC1500
BC1450
BC1379
BC1315
BC1300
BC1230

BC1100

BC1050
BC1000
BP4234
BP3911


BP3900


BP3700
BP3656
BP3600

BP3500

BP3400
BP3300
BP3243
BP3179
BP3200
BP3100

BP3000

BP2900
BP2850

           アッカド帝国成立
           エジプト中王国成立

ミノス(クレタ)文明         
アーリヤ人、インダス川流域に侵入
ウネティチェ文化(ボヘミア)
           大麻の栽培(エジプト)     夏、興る?

           発酵パンつくられる(エジプト)
           古バビロン、ハンムラビ王即位
           アッシリア王国成立

ミケーネ文明(青銅器文化)             殷、興る
           ヒッタイト古王国成立
           エジプト新王国成立
           ヒッタイト新王国成立
           エジプト、アメンホテプ4世即位
           カデシュの戦い(
ヒッタイトVsエシプト
                     『リグ・ヴェーダ』成立
           
ヘブライ人、出エジプト

トロヤ戦争     フェニキア人、地中海世界へ進出
           アッシリア帝国成立
                         周、興る
                 アーリヤ人、ガンジス川流域へ進出
BC960 BP2824            イスラエル、ソロモン王即位
     
BC753
BC750


BC700

BP2617
BP2600


BP2550


ローマ建国(伝承)
                     
バラモン教成立

ギリシア人、地中海世界へ進出
           メディア王国成立(イラン)
ケルト人、全ヨーロッパに進出
           
ゾロアスター教成立
BC600 BP2464                     十六大国時代

BC587
BC522
BC509

BC500
BP2451
BP2386
BP2373

BP2350
           ヘブライ人、バビロニア補囚(ユダヤ教の成立)
           ペルシア、ダリウス一世即位(ペルシャによるオリエント統一
ローマ、共和制成立
                    
仏教の成立
                              儒教の成立
BC492
BC450

BC431
BC429

BP2356
BP2314

BP2295
BP2293

           ペルシア戦争(
ギリシャ連合Vsペルシャ
ローマ、十二表法の制定               スキタイ、強勢となる
(黒海北岸)
ラ・テーヌ文化(ケルト人の鉄器文化
ペロポネソス戦争(パルタVsアテネ
ソフォクレス『オイディプス王』

BC334

BC317
BP2198

BP2181

アレクサンドロス大王、東方大遠征(〜323)

                    
チャンドラグプタ、マウリヤ朝をおこす(北部インド)
                    
チョーラの繁栄(南部インド)

BC264
BC250
BC248
BC221
BC202
BC200
BP2128
BP2114
BP2112
BP2085
BP2085
BP2064
ポエニ戦争(ローマVsカルタゴ(フェニキア人):第一次BC264,第二次BC219,第三次BC149
七十人訳聖書成立(ユダヤ教)
           パルティア、興る(ペルシャ
                              秦の始皇帝、天下統一
                              漢、興る
ゲルマン人南進           アーンドーラ朝、興る?(中・南部インド)
BC120 BP1984                     サカ族の繁栄(北西・中部インド)

BC60
BC58
BC44
BC43
BC30
BC27
BP1924
BP1922
BP1908
BP1907
BP1894
BP1891
第一回三頭政治(ポンペイウス、カエサル、クラッスス
カエサルのガリア遠征
力エサル暗殺
第二回三頭政治(
オクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥス
アクティウムの海戦、クレオパトラ自殺
ローマ、帝政はじまる
AD30
47
59
60
64
91

96


100
BP1834
BP1817
BP1805
BP1806
BP1800
BP1773

BP1768


BP1764

イエス、磔刑となる
        クシャーン朝、興る(北・西部インド)
聖パウロの伝道、始まる
聖ペテロ,聖パウロ殉教
ボウディッカの反乱

キリスト教徒大迫害(
ネロ帝
                             匈奴の一派が西方に移動開始

ローマ、五賢帝時代始まる
 (
〜180:ネルヴァ,トラヤヌス,ハドリアヌス,アントニウス・ピウス,マルクス・アウレリアス・アントニウス

聖女ペトロネラ殉教       アーンドーラ朝最盛期
(中・南部インド)
           
「旧約聖書」ヘブライ語正典、確定

105
116
140
200
BP1757
BP1748
BP1724
BP1664
                             紙の発明
ローマ帝国、最大領土(
トラヤヌス帝
「新約聖書」、ほぼ成立
                   ガンダーラ美術栄える

222
226
238
250
275
274
293
BP1642
BP1638
BP1626
BP1614
BP1589
BP1590
BP1571
                             三国鼎立
           ササン朝ペルシア、興る
                             倭王卑弥呼、魏に来貢
キリスト教徒大迫害(デキウス帝
                   ヴァーカータカ朝、興る(中部インド)
パルミラ討伐(ローマVs女王ゼノビア
ローマ帝国の四分統治開始
303
313
320
325
374
375
391
395
397
BP1561
BP1551
BP1544
BP1539
BP1490
BP1489
BP1473
BP1469
BP1467

キリスト教徒大迫害(
ディオクレティアヌス帝
ミラノ勅令(
キリスト教公認:コンスタンティヌス大帝
                   チャンドラグプタ一世、グプタ朝をおこす(北部インド)
ニカエア公会議(第一回宗教会義:アリウス派を異端とする
フン族、ヨーロッパに侵入
西ゴート人、ドナウ川を渡りローマ帝国領に侵入(民族大移動のはじまり
ローマ帝国、キリスト教をローマ国教とする
ローマ帝国の分裂
カルタゴ公会議(「新約聖書」公認)

406
410
431
445

449

450
451
453
476
481
486
490
498
500

BP1458
BP1454
BP1433
BP1419

BP1415

BP1414
BP1413
BP1411
BP1388
BP1383
BP1378
BP1374
BP1366
BP1364

フン族、ドナウ川中流域を支配
西ゴート王アラリック、ローマ略奪
エフェソス公会議(ネストリウスを異端とする)
アッティラ、フン族の王となる

アングロ・サクソン、ブリタニアに侵入
カタラウヌムの戦い(
西ローマ・ゲルマン連合Vsアッティラ
                   
エフタル、強勢となる(北西部インド)
カルケドン公会議(正統教義(カルケドン派)の確立)
アッティラ、病死(
フン族はボルガ川まで後退
西ローマ帝国、滅亡する
クローヴィス、フランク族の王となる
フランク王国成立(メロヴィング朝:〜751
                   ヴァラビ朝(
マイトラカ朝)、興る(西部インド)
フランク王クローヴィスの洗礼
                   ヒンズー教の成立

536
550
555
585
589
BP1328
BP1314
BP1309
BP1279
BP1275
東ゴート王国、滅亡する
最初のビーグル犬?      グプタ朝、滅ぶ
(北部インド)
           ビザンツ帝国、最大領土(ユスティニアヌス一世)
西ゴート王国、スエビ王国を併合
                             隋、天下統一
(南北朝時代の終わり)
603
605
618
622
642
651


660
661
BP1261
BP1259
BP1246
BP1242
BP1222
BP1213


BP1204
BP1203

ヘプターキー(七王国時代)のはじまり
                   ヴァルダナ朝、興る
(北部インド)
                             唐、興る
           
ムハンマド(マホメット)、メジナへ移住(ヒジュラ:イスラム歴元年
           ニハーヴァンドの戦い(イスラムVsペルシャ
           ササン朝ペルシア、滅亡する
           
「コーラン」、ほぼ成立

聖ビルフラン
           ウマイヤ朝、興る

711

718
730

732
743
750

751


753
756
800

BP1153

BP1146
BP1132

BP1130
BP1119
BP1112

BP1111


BP1109
BP1106
BP1062

ウマイヤ朝、イベリア半島とインド西部に侵入
西ゴート王国、滅亡する
コバドンガの戦い
(アストゥリアス王国、興る)
                   プラティーハーラ朝、興る
(西部インド)ラージプート時代の始まり
           偶像禁止令(レオ三世)
トゥール=ポワティエの戦い(カール・マルテルVsウマイヤ朝
                   ヴァラビ朝(
マイトラカ朝)、滅ぶ(西部インド)
           アッバース朝、興る

ピピン、フランク王となる(カロリング朝:〜987
           タラス河畔の戦い(
イスラムVs唐:製紙術の西伝

                   ラーシュトラクータ朝、興る(
中・南部インド
後ウマイヤ朝、興る(イベリア半島)
フランク王カール、戴冠

 

○○の家畜化(ひぎゃぁ〜)

 イヌ(の御先祖)がヒトと共に生きようと夜空に誓ったのはおよそ2万年ほど前のことのようです。イヌの先祖というと”オオカミ!オオカミ!”と幼稚園児のように元気よく手を挙げまくりたくなりますが、そんなに話は簡単ではないようです。また、狩りに役立てるためにヒトがオオカミを手懐けたとも思いがちですが、イヌの方から歩み寄ってきたという説もあります。同じような環境で同じような獲物を追い求める同じような社会性を持った動物ということで親和力でも働いたのでしょうか?ともかくヒトの群れの中に入ったり離れたり獲物を奪ったり奪われたりするうちに、ヒトの手元にはより従順で有能なイヌが残された、ってとこですか?以来、イヌは頼もしい猟友として、優秀な部下として、また時には(非)常用食料として、ヒトの傍を離れることは片時もなく星霜を過ごしてきたのでした(...の割には語感が悪いのは何故?)。

 一方、ロバの家畜化は、イヌの家畜化からさらに1万年以上遅れた頃のようですが詳しいことは分かりません。北東アフリカの半砂漠地帯にいた原種(今はほぼ絶滅状態)を飼い慣らしたもののようで、少なくとも6千年前のエジプトでは飼育されていたようです。食用でないロバのような大型動物が家畜化される(=必要とされる)にはある程度の文明の進展が必要だったようです。ヒトが運べないような量の荷物を扱うようにならなくては、ロバの出番はありませんよね。ヒトの拡散につれて地球の果てまで広まったイヌに比べて、せいぜい旧大陸止まりのロバの分布が家畜化のおよその時期をあらわしている気がします。脚力のあるウマが最新兵器として人類史上に輝かしい(?)足跡を残すのに対して、ロバの方は地味そのものです。ペリーヌ物語でもあったようにともするとテコでも言うことをきかないようになる反面、普段はおとなしく、粗食にも酷使にも耐えるタフなロバは、庶民の足*1and生体エンジンとして地道に活躍することになります。

 *1 庶民の足、といってもロバ=「愚かな動物」と見なされた中世ヨーロッパでは、ロバは乗用とされることはありませんでした。しかし、そのうちに修道士たちが乗用として使い初め、やがてはそれが修道士のトレードマークと見なされるようになったのです。

文明のはごろも

 いえ、あけぼの(笑)。”文明とは何か”というのはなかなか難しそうな命題です。とりあえず私にわかるのは”カステラ屋とは別物”ということぐらい。文明の条件をいろいろ挙げても、ある事例に当てはまっても別のにはダメということで、例外だらけになってしまう感じですね。しかし、シロウトらしくザクッと言ってしまうと、文明とは都市が出来ることです。都市のような大規模な集落を形成し維持するには、高度な技術や組織が必要ですから。くわしくはガッコの教科書の「四大文明」の章参照のことヨ。

 史上最古の文明は?ということでメソポタミア文明*1だ、いや黄河(長江)文明だろうとかいうことですが、中華圏以外ではメソポタミアが一歩リードってとこですかね。このあたりで約9千年前の集落の遺跡があるそうですから。いずれにせよ最後の氷期−ウルム(ウィスコンシン)氷期が終わった約1万年前*2から文明てなものがそこはかとなくわいてきたのでしょう。新人たちが人類のゆりかご・北東アフリカからユーラシア大陸に拡散してゆくルート上にある豊かな平原、メソポタミアでは早くから農業の発達と集落の発展が見られました。大麦や小麦の原産地がこのあたりなのは偶然ではありません。これら穀物の農業技術の開発が史上初めての文明をこの地にもたらしたと言えるでしょう。逆に古くはスンダランドと呼ばれるひとつの陸地だった現在の東南アジアでは1万年以上前から栽培農業がおこなわれていましたが、そこで栽培されていたのはイモ類やバナナなどで、気候的なこともあってあまり保存のきく物ではありませんでした。従って人口の集中や階級の分化などが著しくならず文明の発信地とはならなかったのです。

 *1 ふたつの川の流域を中心とした地域で発達した穀物栽培技術をベースとするメソポタミア文明。その主役となったのがシュメール人と呼ばれる人々です。ところがこのシュメール人は本来この地域にいたのではない”海から来た”と伝えられる謎の民族です。ほぼ同時期に中国南部から発して東南アジアの島嶼部に広まった民族大移動の一派が流れ着いたのではないかと妄想をたくましくしくする向きもありますが、本当のところはどうなんでしょうかね?
 *2 氷期の終わりの約1万2千年前頃に急激な戻り寒冷期がありました。ヤンガー・ドライアス事件と呼ばれている現象です。北アメリカにあった巨大な氷河湖(氷河が溶けて出来た水が堰き止められて形成された湖)が崩壊して、大量の淡水が一気に海に流れ込んだ結果、海流が乱されて地球規模の熱の移動が滞ったのです。中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減り、それを補うために農業技術が進歩したと考えられています。

宗教の発明

 ぷに萌えはにゃんな国、日本に生まれた私にはよく分からないことですが、どうも人間には宗教が必要なもののようです。宗教の名のもとに日々流される血の多さを考えれば、渋々でも頷けるのではないでしょうか。それほど宗教と人間の歴史とは、遠い過去から現在に至るまで関係深いものなのです。今どきの日本では”宗教”というと”胡散臭い”とほぼ同義語扱いですが、そんな国は世界広しと言えど他にはないでしょう。

 例えば5万年前*1に生きるあなたを考えてみましょう。生き続けるために必要なハードルが非常に高くて数多いのが容易に想像できるでしょう。まさに『太陽の煌めきも、月光の滄溟も、一瞬、死の伴奏と変わるその運命』だったのです(イイすねぇ、この口上。渋いわ〜)。希にみるスマートな武器・知性を身につけた人間といえども、無慈悲な自然の前には為すすべもなく死を受け入れることも多かったことでしょう。逆に信じられない幸運が、豊漁が、与えられることもありました。あなたは安堵しながら考えます。それは何故?死と幸運、その差は何によって?たやすく死に招かれてしまうあなたは、その「何か」も己の戦力として加える必要がありました。想像もできないほど強力な力を持ち、無慈悲で気まぐれな存在。崇め、称えなければならぬ尊い名前。そう。今は名も知れぬ神々が、あなたと共にあったのです。

 最初はおまじない程度のものだったのでしょう。経過した時間と遭遇した様々な状況によってその”作法”は次第に複雑なものになっていきました。同時にいろいろな例を解釈するために、多くの説話は体系化されていきました。そうして長い時間、さまざまな人間の生活が繰り返される中で、宗教が形作られてきたのです(ほんまかいな、そうかいな)。

 *1 ネアンデルタール人の文化(ムステリアン文化)の最晩期にあたります。彼らは死者を悼み、弔う儀礼を持っていたと見られ、おそらく某かの神の庇護の元にあったのでしょう。

高貴なる人々

 いろいろな分類があるのでしょうが、大きく分けて宗教には民族的宗教と世界的宗教とがあると思います。ある限られた民族の為に自分たちにより有利なように作られたものと、多くの人々に受け入れられるように普遍化したものです。例えば神道が前者、仏教が後者ですかね。おもしろいことに(というか私がおもしろいと思っているだけですが)世界宗教となったものの多くには親戚関係があるようです。

B.C.3000 シュメール人の宗教      
B.C.2000

   | ̄ ̄

アーリア人の宗教  
B.C.1500

 

 ̄ ̄|    

ミトラ教 バラモン教
B.C.1000

   | ̄ ̄

 | 

 | 

ゾロアスター教
B.C. 500 ユダヤ教

 ̄ ̄|  

 | 
仏教
A.C. 500 キリスト教

 
  ヒンズー教
A.C.1000   イスラム教    
 

 現在世界各地で多くの信者を持ついくつかの宗教*1のルーツのひとつがアーリア人の神々です。アーリア人は今から約4500年前にロシア南部の中央アジアの平原に活躍した、2輪戦車を駆り、金属加工技術を持っていた人々のうち、(たぶん寒冷化や少雨などの気候変動によって)インド北西部やイラン高原に進出した民族です。インド=ヨーロッパ語族に類する言葉を話した彼らが、それから2千年後にヨーロッパで大活躍する同系統の言葉を話したゲルマン系の人々の御先祖筋に当たると考えることはさほど見当違いでもないでしょう。さらにインドに進んだアーリア人はインダス文明を築いた人々*2を蹴散らしつつパンジャブ地方を開墾し*3、上位カーストを占有することになるわけですから、まさに彼らアーリア人*4がペリーヌ・パンダボアヌ嬢の大々々御先祖様と言えるでしょう。

 *1 上にあげた以外の世界的な宗教といったら道教と儒教ぐらいしか思いつきません。
 *2 現在では南インドに多いドラヴィダ人がインダス文明を築いたのだろうといわれています。インダス文明は世界最古の文明とも言われるシュメール文明と交易していたことでも有名ですが、いまだ文字が解読されておらず、謎も多く残されています。
 
*3 現在ヨーロッパ各地、特に東欧に多く分布するロマ人(ジプシーと呼ばれた人々。ジプシーとは”エジプト人”が訛ったものだそうで蔑称だとか)のルーツはこのあたりだそうで、遠い昔に侵略者に追われたのかも知れませんね。
 *4 アーリア(またはアーリヤ)とは彼らの言葉で”高貴な”という意味。さすがにヨーロッパ人の御先祖らしいイイグサだ、と言ったら張り倒されますか?

概観すぎる古代インド

 私たちは、世界に冠たるカレー*1好き民族で、街で通行人の誰に聞いてもカレーについては一家言持っている程です。ではそのカレーの母国であるインドについてどの程度知っているでしょうか?シヴァ神*2、カーリー女神*3、ブッダ、サリー、ターバン*4、チャンドラセカール、ガンジー、レインボーマン、ララァ、すごいやラピュタは本当にあったんだ!といったところで(笑)シタールの「み゛ゃ〜ん」という音色と共に浮かび上がる摩訶不思議な国といったところが正直なイメージなのではないでしょうか。(え?お前だけだって?...てへっ)

 さて、なんか意外なことに新石器時代のインドにはオーストロネシア系(早い話がアジア系)の人たちが生活基盤を築いていたそうです。その後、今から5500年前ぐらいにイラン高原からドラビダ系の人々が侵入してきました。この人たちは現在では南インドに多い民族で、顔立ちは、えーと、そう、サイババ系の人たちです(余計わかりにくい?)。彼らは希にみる平和的で高度なインダス文明の諸都市を築いたとして有名ですね。とはいえ沙羅双樹の花の色が表すとおりに、インダス文明はその後侵入してきた前項のアーリア人に蹂躙されてしまいます(約4千年前)。このアーリア人の子孫がガンジー系の顔立ちをしたインド人なわけです。この人たちは結局北部インド・ガンジス川流域の肥沃な平野に定着して、後世の叙事詩となるような小国家群の興亡*5を繰り返すことになります。これらの中で有力なものの一つがマガダ国で、いくつもの王朝を変遷しつつ*6都合千年以上北部インドの中心*7として存在しました。

 一方、南部インド*8ではチョーラ、パーンディヤといったようなタミール人(ドラビダ系)の国々が少なくとも紀元前3世紀には栄えていました。これらの国々はローマやアラビアの国々との海上貿易*9によって国力を得ていたようです。古くはアーリア=バラモン教とは別系統の、時代を経るとヒンズー教的な文化がこれらの地域で盛んになりました。

 *1 タミル語で”スープの具”を意味する「カリ」が語源、ターメリックやクミンなどの香辛料豊かなソースで具を煮た料理...何て言うこともないほど日本ではフツーな料理ですね。好きな男性を「カレ」というほど大人気です(ちょっと待て!)。
 *2 アーリア人の神々のうちの一柱、わりとマイナーだった暴風雨の神ルドラ(もともとはインダス文明の神?)をベースに、土着の神の強い影響を受けて誕生したヒンズー教の主神(の一柱)。苦行者の姿で第3の目を持ち、世界の破壊と再生を司る大神。仏教には大黒天として取り込まれています。また日本ではもっぱら競馬場で尊重されていますね。「...その差は大きく開いて3馬身からシヴァ神…」(へーえ、っておい)
 
*3 名前からして「カレーの神?」って思ってしまいますが、とんでもない。シヴァ神の妻の化身の化身で(ややこしい)血と死臭を好む大殺戮の黒い女神です。この女神に生贄を捧げ続ける殺人教団が存在した(存在する?)そうです。オオコワ!
 *4 インド人のイメージというと髭面にターバン巻いて首カクカクって感じですが、ターバン巻くのはシーク教徒の身なりなんですと。シーク教は北西部インドのパンジャブ州で優勢な宗教で、イスラムとヒンズーの批判勢力として15世紀に誕生したらしいです。
 *5 BC600年頃の北東インドでは16程の国々が勢力争いを繰り返していました。十六大国時代とも言われます。これらは基本的にガンジス川沿いの都市国家で、ヴェーダの教えを奉るアーリア人たちの国々でした。国々の興亡は叙事詩のモチーフとして残されています。
 *6 十六大国のうち最も有力だったのがマガダ国でした(ちなみにシッタルーダ王子が生まれたのはこのマガダ国の属国の一つ)。マガダ国の主な王朝を記すると、以下の通り。このうちマウリア朝からは仏教庇護で有名なアショーカ王が登場しましたし、グブタ朝は北部インドを支配していた異民族王朝(クシャーナ族,サカ族など)を滅ぼし、インド古典文化の最盛期を築きました。『0』の発見もこの頃だと言われています。そしてこのグブタ朝がアーリア人直系の(たぶん)最後の王朝になったのです。

シャイシュナーガ朝 ナンダ朝 マウリア朝 シュンガ朝 カーンバ朝   グブタ朝
BC400? - BC350? BC350? - BC317 BC317 - BC180 BC180 - BC 68 BC 75 - BC 30   320 - 550

 *7 とはいうものの北部インドは民族の十字路といわれる中央アジアに接しており、異民族の侵入が絶えませんでした。そもそも自分たち(アーリア人)からしてそうですからね。ざっとみてもギリシャ人(アレクサンドロス大王:BC326),サカ族(もともとスキタイ系の民族?:BC100 - ),クシャーナ族(大月氏の一氏族: 50 - ),エフタル(イラン系?別名《白いフン族》:450 - )そしてイスラム(ウマイヤ朝:712)といずれも強力な民族がインドの冨をめざして侵入し続けました。
 *8 ヨーロッパや中国と違って、インドでは全土を支配する統一国家というものが登場しませんでした。それがインドに混沌的なイメージを抱かせる要因になっているのかも知れませんね。その原因としてはモザイクな人種と民族そして宗教、南北を隔てるビンディヤ山脈といったところですか。
 *9 インド洋北部では11月から3月にかけては北東の風が吹き、5月から9月には逆に南西の季節風が吹きます。つまりこれを利用すれば定期航路が容易に出来るのです。一応、紀元前1世紀頃のアラブ商人がこれを発見したことになっていますが、インダス文明の交易でもわかる通り、この風は古くから利用されてきたのでしょう。

キリスト教の誕生

 世界名作劇場のほとんどの作品はキリスト教が背景にある地域のお話です。したがって作品をより深く楽しむにはキリスト教の素養が必要なはずなのですが、どーなんでしょうねそこんとこ。そーゆー意味でキリスト教の国々で世界名作劇場がどのような反応で迎えられているか、興味があります。

 さて、ペリーヌはカトリックの信者なのですが、カトリックとはキリスト教の最も古い宗派の一つで、その意味するところはギリシャ語の”普遍的”*1。教会の権威を重んじるカトリックに対して、聖書に重きを置くプロテスタントという図式だそうな。でそのキリスト教ですが、上表にあるように2千年前にユダヤ教をモデルチェンジして誕生しました(なんか語弊があるような表現)。そしてユダヤ教は、様々な民族が行き交うパレスチナの地で自らの存在を強固にするために編み出したユダヤの人々のための宗教*2でした。弱小国家の悲しさ、ユダヤの人々は周辺の強国の思惑によって民族浄化やら強制移住やらの限りない辛苦を舐めさせられてきました。したがって彼らの宗教は彼ら”のみ”を強力にサポートする神を必要とし崇めました。これは程度の違いこそあれ、同じ神*3を奉るキリスト教やイスラム教にも見られる特徴です。世界史を見れば一目瞭然で、かの神を知らなかったばかりに地上から消え失せた国や民族は数知れません。平将門なんかテンで問題にならない超強力な史上最強の祟り神です。信じる者”だけ”が救われるのです。

 キリスト教の特徴として唯一神*4を奉っているという点があります。これまたオリジナルのユダヤ教から受け継いだものです。数多くの神々が覇を競ったオリエント世界では”オラが神が一番!”と殊更強調する必要があったのでしょう。で、つい”何でも出来る!”と言ってしまったので、他の神はすべて神ならざる者=悪魔になってしまったというわけです(ほんとかよ)。それはもう一神教というより多悪魔教とでも言った方がいいくらいのものです。とはいえ、キリスト教の場合、ちぃーと事情がありまして、実質プチ多神教とでもいうような感じに仕上がってます。新規開拓地の神はある部分は悪魔として、ある部分は聖人などとして自分自身の中に取り込んでいったからです。それこそ数限りないほどいる聖人や聖母マリア*5に対する信仰がその例です。またキリスト教の儀礼には他の宗教から取り入れたものが多く含まれていることが知られています。*6

 もう一つのキリスト教の特徴としては神の前での平等を説いたところでしょうか。これがユダヤ教の中からキリスト教が生まれたきっかけであり、キリスト教が広く電波(笑)いや伝播していく原動力となったのでしょう。

 *1 katholikos:カトリコス。すわカトリの名の由来か、とも思いましたが、カトリKatriはカトリーヌなどと同じく聖女カタリナに因む名前のようです
 *2 旧約聖書あたりはまんまユダヤ人の歴史書ですからねぇ。約3200年前にエジプトを離れて以降、様々な指導者(士師)のもとで地道に活躍したりしてようやく王国(ダビデ・ソロモン王国)を得たのも束の間、王国は強国に蹂躙されユダヤ人たちは離散生活をおくることになってしまいます。ユダヤ教が現在のような姿に整えられたのはこの頃(約2600年前)だと言われています。
 *3 ユダヤ教の聖書は”旧約”、キリスト教の聖書は”新約”と呼ばれています。これは古い契約・新しい契約の意味だとか。それならコーランは”ちょー新約聖書”もしくは”マジ新約聖書”ですね。
 *4 一応、八百万の神々を奉ることになっている日本人にとっては、一神教であることは非常にユニークなことのように感じますが、ユダヤ教の形成当時としてはさほど珍しいことでもなかったようです。たとえば古代エジプト新王国のアメンホテプ4世(約3370年前)は彼の治世のために一神教をでっちあげていますし、ミトラ教は一神教とみなしても良いような宗教です。また中近東各地の都市国家はメソポタミアの神々のうちの一柱の神を守り神として熱烈に信奉していたようです。
 *5 聖母マリアに対する信仰は汎世界的な大地母神信仰に連なるものだそうで、特にヨーロッパ各地に散在する”黒いマリア像”に対する信仰は、もともと古代エジプトの女神イシスへの信仰をカムフラージュしたものとも言われています。そういえばキリスト教のもう一つの特徴−父性原理は、当時の主流派=大地母神信仰との対抗上でてきたもののようなのですが、ちゃんとガス抜きの仕組みも隠されていたのですね。
 *6 例えばクリスマスは各地でおこなわれていた冬至の祭り(特に当時優勢だったミトラス教の《征服されることなき太陽の誕生日》)を取り込んだものと言われています。このようなことはキリスト教に限らず後発の宗教が勢力を増していくときにはよくあることらしいです。ローマ神話なんかはギリシャ神話をそのままパクッてますしね。

キリスト教の発展

 言うまでもなくキリスト教の開祖?*1はイエス・キリスト*2(BC4?〜AD30?)です。彼がそれを念頭に置いていたとは思えませんが、彼の教えには広く信者を獲得してゆく内容が含まれていました。曰く神の前での平等、曰く死後の救済。ユダヤ教の改革者*3として登場した彼の弟子たちは、教条主義に凝り固まったユダヤ主流派によって約束の地パレスチナを追われて世界中に、すなわちローマ帝国とその周辺に逃れていきました。そしてその先々でこの新しい宗教を広めることに心血を注ぎました。電動(笑)いや伝道宗教としてのキリスト教の性格が加わったのです。イエスが活動したのはせいぜい3〜4年程度でしたが、彼の没後、残された彼の弟子をまとめ、残された説教を体系化し、キリスト教が世界宗教となる礎を作ったのがパウロ(サウル)でした。*4彼が、ユダヤ教の改革運動の一つを別の宗教にまとめ上げたと言う人もいるくらいです。

 以降、キリスト教は帝国の強力なインフラ=道路網と人口密度を十二分に活用して急速に勢力を増して行きました。幾つかの大迫害*5を乗り越えて、パウロの殉教からほぼ250年後*6のコンスタンティヌス大帝によってキリスト教は晴れて公認されることになったのでした。(ミラノ勅令:313年)

 *1 イエスの師匠にあたる宗教指導者、それが洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)です。彼はイエスが現れる前から自身の教団を率いて「ユダヤの民よ、悔い改めよ」と訴える活動を繰り広げていました。ヨハネは有名なサロメへのプレゼントとして首を召されてしまいますが、後を継いだイエスは当時のユダヤ教団を脅かすほどの影響力を急速に示すことになります。したがって、原始キリスト教では洗礼者ヨハネを事実上の開祖としていたという説もあります(そういえばヨハネにはイエスと対になるような懐妊・受胎告知の物語がありますね)。
 *2 イエス・キリストの「イエス」はヨシュアのギリシャ読み。ヨシュアは”神(ヤハウェ)は救い”の意味で、ユダヤ人の男の子の一般的な名前ですいわばジョンとかジャックとか太郎に相当するのでしょう。一方「キリスト」は同じくメシアのギリシャ読み。メシアは食堂のことではなく(こてこて)”香油を注がれた者,王,救世主”です。つまり「イエス・キリスト」は「ユダヤ人の王」の意味ともとれるので、架空の人物では?とする説もあったようです。しかし、こういう名前を前面に押し立てて活動したとすれば迫害されるのも無理からぬような。
 *3 突然ですが妄想の時間です。イエスをユダヤ教の指導者たちに売り渡したと言われるイスカリオテのユダは、はたして本当に裏切り者だったのでしょうか。それまでのような活動を続ければ遅かれ早かれ処刑されるであろう事をイエスは分かっていたはずです。では自分の死後も強い対ユダヤ教意識を保ち続けるにはどうすればよいか。逃亡の末ではなく粛々と捕らえられるほうがよい。そうだ、ユダヤ人であることを彷彿とさせる者に裏切られよう。(ユダとはユダヤ人の祖となったとされる人物の名)イエスは彼を引き渡すことを躊躇するユダに「するべきことをしなさい」と励まし(?)てさえいるのです。ユダはその後自殺しますが、これはいずれの宗教でも許されざる大罪です。自ら進んで反社会的集団を壊滅させるのに協力したとすれば何故死ぬ必要があったのでしょう。彼は死ななければなりませんでした。主を蔑ろにする者=ユダヤ人は、未来永劫救われないことの証として、恥ずべき死を漕げなければならなかったのではないでしょうか?とゆーか彼こそ創作された人物なのかも。妄想終わり。
 *4 生年不詳ですがイエスと同時代人。現在のトルコ南部の生まれで、ローマ皇帝ネロの迫害で59年頃ローマで殉教したと伝えられています。宗教画などでは禿頭顎髭の老人として描かれます。つまり、ポールも年とるとハゲる運命なのでしょうか(なんでそーなるの?)。パウロは元々はユダヤ教徒、それもキリスト教迫害の急先鋒でしたが、イエス磔刑の数年後突然神の声を聞くという奇蹟を経験して、キリスト教徒となりました。以来布教に次ぐ布教を続けて、キリスト教の発展に尽くしました。彼の手になると言う幾通もの手紙は彼の人間的苦悩を伝えるものとして有名だとか。聖パウロの祝日は6月29日。
 *5 宗教に関しては寛容であったローマがキリスト教を迫害した理由は、偶像崇拝をせず、ローマの皇帝を神として崇めなかったからだと言われています(もしくは何か予感があったのかも(笑)。なにしろ公認以降100年も経たないうちにローマ帝国は分裂してしまうのですから)。郷に入りても郷に従わなかったのですね>キリスト教徒。有名なところでは、ネロ帝の迫害(64年) ,デキウス帝の大迫害(250年),ディオクレティアヌス帝の大迫害(303年)などがあります。
 *6 この間、ローマ帝国は五賢帝の時代を迎えて最盛期を迎えるも、間もなくペリーヌの父方の祖ゲルマン人の活動も始まって国勢は斜傾化し、後漢の光武帝に追われた匈奴が西進して名を変え、フン族として敗者復活戦に臨むという情勢でした。あ、卑弥呼とその娘が手紙書いたりしたのも、三国志なのもこの頃です。

ケルト人とゲルマン人

 ”民族大移動”*1なんてことを昔ガッコで習いましたね。盆と正月とゴールデンウィークの交通渋滞とは、これまた別の話です。ゲルマン人の大移動はかのローマ帝国をも倒し、その約500年後のノルマン人の大移動では小さなヴァイキング・ビッケの働きによってアーサー王がアヴァロンに送られてしまいました(何か違う?)。*2結局ヨーロッパという地域はユーラシア大陸の西端なわけで、各地の民族移動がドミノ倒し的に収束しやすいのでしょうか。

 では、ゲルマン人がやってくるまでヨーロッパは無人の黒森だったのかというと勿論そうではなくてケルト人がいました。*3ローマ人に言わせるとガリア人です。ケルト人はライン・エルベ・ドナウ川上流域にいた人々でしたが、次第に勢力を増してBC700年頃にはほぼ全ヨーロッパに進出、一部は小アジアにまで到達しました。ケルト人はヨーロッパ初の鉄器文化の担い手であり(ラ・テーヌ文化:BC500〜100年頃)、有名なドルイド教*4を奉じる勇猛果敢な民族でした。

 ユトランド半島を中心とした一帯から発してBC200年頃から南進し、ケルト人を追いやったのが同じインド=ヨーロッパ語族のゲルマン人です。ゲルマン人は金髪碧眼で総じてケルト人より背が高くがっちりとした体躯を持ち、やはり有名な北欧神話の元となった壮大で悲壮な世界観を持つ人々でした。南進した彼らはローマ帝国と衝突してライン川をほぼ境界として平衡を保っていたのですが(紀元前後〜)、東進してきたフン族に押されて黒海北岸にいた東ゲルマン系の西ゴート族が東欧に侵入して以降、大ドミノ倒し現象が起こるわけです。(375年)

 *1 どうやらヒトというのは”民族移動する動物”のようです。知性の獲得によって他と比べようもないほどの環境適応能力を身につけたことがそれを可能にしました。ゲルマン、ノルマンの大移動は、原人の移動から始まり今なお続いている史上数限りなくあった民族移動の一例に過ぎません。前述のアーリア人や匈奴しかり、6000年前の中国南部から始まり遙か彼方のイースター島にまで達するオーストロネシア語族系人しかりです。
 *2 ゲルマン、ノルマンの大移動は第一次・第二次民族移動などとも呼ばれます。共に舞台がヨーロッパで、共にゲルマンであることからでしょうか。ノルマン人はゲルマン大移動時においてほぼ本拠地にとどまっていた北ゲルマン諸族のことです。
 *3 ではケルト以前のヨーロッパには誰がいたかというと、まずケルト人と直接競合したのは地中海沿岸のリグリア人やバルカン半島に栄えていたイリュリア人などです。イタリアにはエトルリア人も栄えていましたしね。その前にはボヘミアを中心として北ヨーロッパに青銅器を広めたウネティチェ文化がありました(BC2000〜1500年頃)。って知らねーよ(泣)。このあたりの年代はミケーネ文明とかぶります。さらに遡るとストーン・ヘンジなどの巨石遺跡で有名なイベリア人がいました(BC5000〜2000年頃)。彼らは北アフリカに起源を持つとか。そして黒海方面へと広がっていったそうです。同じ頃に活躍したのが銅器を作る技術を持つベル・ビーカー人です。彼らは東方から移動してきたインド=ヨーロッパ語族の人たちであったと言われています。ついでにいうとヨーロッパに農耕技術を伴う文化つまり新石器文化が芽生えたのはBC7000〜5000年頃だそうです。
 *4 科学忍者隊ガッチャマンの主題歌でも歌われるドルイド(....ちと苦しいか)は、ケルト社会における宗教指導者であり且つ政治指導者でした。彼らの奉じた神々は自然の様々な事象に宿っており、特に樫の木とヤドリギが神聖視されていました。(いまではどちらもクリスマスを連想させますが、前述のキリスト教のテクニックによるものですね)かれらの宗教は魂の不滅と転生を説いており、これが死を恐れぬ戦士を育んだと言われています。《樫の木を知る者》を意味する彼らは世襲で強力な権限をもっていましたが、キリスト教の浸透によりその力を失いました。しかし彼らの奉じた神々がヨーロッパの文化の底流に流れるものの一つであることに疑いはありません。ケルトの神々の残照はデ・ダナーンの神話に残されています。

フランク族

ep1 フランキスカという名の武器があります。中距離に接近してきた敵に対して投擲する投げ斧です。これを用いてローマ軍を大いに悩ませたのがフランク族です。ちょっとフランク過ぎる人たちみたいですね。フランク族はライン川とウェーザー川の間にBC200年頃から住んでいたゲルマン人の一部族です。彼らも民族大移動のとばっちりをくらって居留地の移動を余儀なくされたのですが、現在のフランス北部くらいまで移動しただけで、他の部族のように遠くあちこちへと移動したわけではありませんでした。*1このことがその後勢力を伸張する要因の一つと言われています。

 フランク族が勢力を得たもう一つの要因は彼らがローマ市民に多かったキリスト教主流派、つまり後のカトリックに帰依したという点です。*2つまり、ローマ市民の支持を得やすかったという訳。何故かは知りませんが、ゲルマンの中でカトリックに改宗したのはフランクの王だけだったのだとか。

 486年に同族の全小王国を統一して出来たフランク王国*3は、ライン川とその支流マイン川の合流地点のフランクフルト*4を中心とした一帯を支配するだけでしたが、神のお導きなのかどうか、わずか30年後にはライン川からガロンヌ川までを、約300年後のカール大帝の頃にはエルベ川・ドナウ川を東の境界とするような大国に成長して*5、時の教皇から西ローマ帝国が復興したと認められるほどになったのでした。

 *1 例えば後にローマに侵入して破壊と略奪の限りを尽くして悪名を欲しいままにしたヴァンダル族の場合、もともとワルシャワあたりにいたものがヨーロッパをぐるーっと巡って北アフリカのカルタゴにまで到達しています。
 *2 ゲルマンの多くは第1回公会議(ニカエア公会議;325年)で異端とされたアリウス派(父と子は異質)を信奉していたのに対して、フランク王クロービスは三位一体を説くアタナシオス派に改宗しました。これが後にローマ教会が後ろ盾としてフランク王国を頼ってくる理由ともなるのです。
 *3 フランク族の中の一部族サリ族が起こした国。430年頃、もともとブリュッセル辺りにいた彼らは南下しはじめ、マロクールの設定されたソム川流域に進出しました。以降クロービスが王となるまでの50年あまりを堅実な小国として過ごすわけです。
 *4 ドイツ中西部の都市。正しくはフランクフルト・アム・マイン。フランク族のマイン川渡河地点、と言う意味。フランク王国を打ち立てたクロービスが、パリを王都とするまで本拠地としました。
 *5 とはいうもののクロービスやカール大帝のような強力で優秀な統治者がいる場合はともかく、それ以外の時期は貴族や諸侯のいいなりの分国乱立状態というのが正直なところでした。例えばクロービス以降を簡単かついい加減にまとめると次のようになります。

  フランキア(ライン川とロアール川の間) アクイタニア
(南フランス)
メロビング朝
(486‐751)
ランス分国
(511-555)
オルレアン分国
(511-524)
ソアソン分国
(511-584)
パリ分国
(511-567)
各分国の
諸領地
アウストラシア
分国
(東分国,王都メッツ)
ブルグント分国
(王都シャロン・シュル・ソーヌ)
ネウストリア分国
(西分国,王都パリ)
統一王国(637-675) トロサ大公国
(638-)
統一王国(675-)
カロリング朝
(752‐987)

 表の最後は「統一」となっていますが王の権力としては無いも同然で宰相の方が遙かに勢力を持っており、彼らが表舞台に出たのがカロリング朝となります。フランク族には相続において男子全てに財産を均等に与えるというルールがあって、子が二人以上いる場合はもめ事のネタになったわけで、しばしば王国衰退の因となりました。後のベルダン条約,メルセン条約による領土分割も同じ理由によるものです。
 ペリーヌ物語的に重要な?事件もこの時期におこっています。(たぶん)ビルフランの名前の由来である聖ビルフラン(Wulfram;記念日は10/15)の活動したのがこの頃です。彼はクロタール3世(ブルグンド・ネウストリア統一王,在位657-673)に仕えた大司教で、今のオランダにあたるフリースランドの改宗に尽力した人のようです。聖ビルフランの名を冠した教会がマロクールの北西約30kmの都市アブビルにあるので、ひょっとするとビルフランはこの近郊の生まれなのかもしれませんね。

イスラムの勃興

 『ペリーヌ物語』的には物語の冒頭にトルコ風の衣装が少し出てくる程度ですが、世界史的には中世から近世にかけてヨーロッパ共通かつ最大の脅威*1といえばイスラム勢力のことでした。てゆーか今でも泣く子も黙る程の恐れられぶりです。一方でヨーロッパが暗黒の帳に閉ざされていた中世に華やかな文化*2を誇っていたイスラム。世界史上の名仇役とも言えるこのイスラム世界をちょこっと覗いてみましょう。

 イスラムの発祥の地はアラビア半島です。アラビアといえば中東、中東といえば古代文明発祥の地ですね。ではその古代文明繁栄の後はどうなっていたのでしょうか?簡単に言ってローマとペルシャが勢力を二分していた時代が長く続いていました。ですがこの二強がシノギを削っていたのは今で言うシリアとかイラクあたりです。肝心のアラビア半島はといえば、ありていに言って空白地帯でした。*3なんといっても砂漠のど真ん中ですからねえ。ただしこの地球上何処に行こうと人の営みは絶えません。この地には有名な遊牧民ベドウィンの人々*4が暮らしていました。彼らは遊牧と交易で経済力とネットワークを形成し、勇猛果敢で誇り高い性格から部族間の抗争を繰り返していました。

 交易の町メッカ*5のありふれた中年の商人ムハンマド*6が何故突然布教活動*7をはじめたのか?信者でも何でもないジャパニーズには知る由もありません。ただしその結果ははっきりしたもので、市民から執拗な迫害を受けるようになってしまったのです。それゃもう、茶髪で学校に行ったのとは比べようもないくらい(比べるなよ)。堪らずムハンマド一派は内陸の町メディナに移動しました(これがヒジュラで、イスラム歴の紀元)。もともと勇猛な上に信じるもののもとに戦う彼らは大奮戦し、押し寄せる討伐軍を次々と撃退、その都度シンパを増やしていきました。*8そしてムハンマドが没するまでにはアラビア半島をほぼ掌中に収め、正統カリフと呼ばれる4代の後継者の後にはインド西部から北アフリカに及ぶ大帝国を築きあげたのです。*9*10

 ”右手にコーラン、左手に剣”という良く知られた言葉から受ける印象とは異なり、イスラムの宗教政策は寛容でした。*11税を払いさえすれば、キリスト教徒であれユダヤ教徒であれ信仰生活は保障されました。ペルシャやエジプト,シリアなど各地で営々と築かれてきた文化が融合し繁栄したのは、ひとつにこのような政策があったのだろうと思います。*12

 *1 何世紀にも渡ってヨーロッパ諸国に脅威を与え続けたのは確かにイスラムです。が短期間で見るとさらに強大な恐怖を与えた勢力があります。それはもちろんモンゴル、蒼き狼チンギス=ハーン(の長子バトゥ)の大軍勢です。高い文化を誇り、同じ神(とイスラムは主張します)を奉じるイスラム軍と、ヨーロッパ人と共通するもののほとんどない、それこそ草原の狼の大群のようなモンゴル軍とではやはりその苛烈さが異なります。場合によっては都市の住民どころか犬猫に至るまで虐殺し、街を完全に破壊して平原に戻してしまうような徹底した壊滅も厭わない鉄のごとき軍団でしたから。1241年ポーランド・ワールシュタットで約4万のヨーロッパ連合軍が殲滅された後、もし、遠く本国でクリルタイ(部族総会のようなもの)が開かれたためにバトゥの軍が撤退しなかったら、ヨーロッパ中央部の諸侯は各個撃破され、そののちイスラム化していたのかもしれませんね。
 *2 《アルコール》とか《アルカリ》とか《アルタイル(星の名)》とかは当時のイスラム科学のレベルの高さを今に伝える当時の名残です。アレキサンドロス大王の大征服がもたらしたヘレニズム文化の発展と同様な高まりが、再びこの地に訪れたのでした。
 *3 とはいえアラビア半島南端のイエメンあたりには古くから有力な国々の歴史が続いていました。ヤマンと呼ばれるこのあたりでは灌漑農業がおこなわれ、アフリカやインド辺りとの交易でも栄えていたからです。古くは旧約聖書のソロモン王のエビソードで登場するシバの女王の国とか、時代を下っては紅海をはさんで対岸のエチオピアのキリスト教王国と戦争してこれを滅ぼしたりもしました。
 *4 ヤマンの国々の発展で増えた人口の一部が農地を失って遊牧生活に移行しつつ北部に移動したのがベドウィンの由来と言われています。もともと《アラブ》という言葉は彼らのことをさすということです。余談ですが遊牧というと何となく原始的なイメージがありますが、実は農耕に適さない荒地をも有効利用するために考案されたより高度な農法なのですと。しかも何故か精悍な性格の民族になって強烈な軍事力を得、世界史上に確たる名を残す例が数あまた。
 *5 メッカには有名なカーバ神殿がありますが、これはもともと別の神々の神殿だったと言うことです。曰く、最高神フバル,三女神アル・ラート,アル・ウッザ,マナートなどなど。アッラーのモデルの一つとなるアッラーフ神も奉られていました。
 
*6 当時メッカを支配していたアラブのクライシュ族の零落した名家ハーシュ家のムハンマドは、幼時に両親を相次いで失いつつも親戚の間で暖かく育ち、10才年上の裕福な寡婦と結婚して、小さいながらも堅実な貿易商として暮らしていました、40歳頃までは。何があったんでしょうね?この頃、彼は瞑想しがちになったそうなのですが、いわゆる”中年の危機”ですか?(笑)
 *7 メッカ郊外の霊山で瞑想していたムハンマドの前に突然天使ジブリール(名作なアニメを作る天使ではなくて、キリスト教のガブリエルに相当するお告げの天使。キリスト教のが何となく女性的なのに比べ、イスラム教のはえらく男性的)が現れ、「ゴォルラ!コーラン読まんかい!布教せんかい!」と歯ァがたがたいわされたので、ブルッたムハンマドは布教活動を開始したのでした。なんつうか激しく厄年だった模様。
 *8 ムハンマドは最初の妻が亡くなった後、たくさんの妻を娶っています。なんと10人以上!多くはイスラムが滅ぼした部族の姫や寡婦で、彼女らとの婚姻をもとにそれらの部族との関係を強化、教団は急速に勢力を拡大したのでした。ちなみに一部で有名なファティマはムハンマドの娘で第四代正統カリフ アリーの妻の名、アイーシャはムハンマド3番目の妻の名。(彼女が結婚したのは9才!でダンナは50過ぎ!!)
 *9 これまで述べてきたようにイスラム帝国は当初アラブ民族が支配的な地位を占めていました(ウマイヤ朝まで)。しかし、その後をとったアッパース朝はペルシャ系、十字軍やビザンツ帝国と戦ったのはトルコ系のスルタンたちで、アラブの人々は再び世界史の表舞台から退場したのでした。アッラーの恵み・石油が発見されるまでは。
 
*10 イスラムの急速な勢力の拡大は、アッラーの前での平等をはじめとする宗教の力は勿論ですが、ペルシャやシリアといった旧来の勢力の下で燻っていた被征服諸民族の不満が表面化したという見方もできます。
 
*11 このあたり、同様に広大な領地を誇ったローマ帝国の政策を連想させられます。なんとなく。
 *12 例えばウマイヤ朝のイベリア半島征服には、イスラムの寛容な政策に期待した各地のユダヤ教徒の協力が大きかったといいます。ただし、イスラム勢力がヨーロッパから追われたあとのユダヤ教徒の運命はより過酷なものになってしまいました。

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